猫好きオッサンのメキシコ在住半生記

猫好きのオッサンがメキシコに住み着いた半生記

猫好きオッサンのメキシコ在住半生記-8

メキシカンラプソディー その2(アルバイトから本採用へ)

 図面のスペイン語化作業も終り、専門職工に教えを乞う日々を過ごすしていたある日、突然面接と採用試験を受けたS社長に上司と共に呼び出される。「何かヘマしたのかな?解雇されるのかな?」とか、不安な気持ちを抱えて社長室へ入ると、全く予想もしなかった言葉が待っていた。社長曰く「人手が足らないからリアクター設備を内作するプロジェクトリーダーとして、頑張ってくれ!」俺は、「そんな大役無理ですよ!卒業したばかりで何の経験も無い俺が出来る訳がない!」と辞退しようとすると、「心配しなくてもサポートは皆でするから、心配しないで」と押し切られてしまった。当時のメキシコは国産化率という規制があって、多しか50%以上だったか国内生産をする必要があった。落札当時計画していた内製品目では国産化率を達成できない事が分かり、其の為、当初日本から輸入する予定であったリアクターに白羽の矢が当り、内作する必要が発生した訳だ。

進出した工場がある町の中心(ソカロ)

 次の日から、リアクターを生産するための、勉強が始まる。元々内燃機関に興味があって、電気系の知識などほぼ皆無に等しい俺の事とて、説明されても頭に入らない。先ず、リアクターそのものの機能を理解する事から取り掛かった。一カ月ほどすると、生産に必要な設備のアウトラインが見えて来たのは、暗闇に一筋の光が小さく見えた来た

ような、少しの進歩であったろう。リアクターにも色々な種類があるが、この工場で必要なリアクターは、U字型に曲げた銅の角棒にガラス繊維で出来た帯を巻き付けて行き、それを、含侵タンクに入れて、絶縁処理を施しその後組み立てる。大まかに言えばそういう製造過程だ。大雑把には、銅の角材を曲げる機械、巻き線機、真空含侵タンク、が挙げられる。その中で非常に苦労したのが含侵タンクであった。そういっても、ピンとこないと思うので、簡単に説明すると、真空含侵というのは、ガラス繊維を巻いた部品をタンクの中に入れて、絶縁材の液体を流入しガラス繊維に浸み込ませることを云う。粘性の高い液体なので、タンクへ投入時気泡が出来るので、真空引きして気泡を抜く装置の事だ。

日本から図面が送られてきたが、先ずはその図面をメキシコでどの様に作るかの部品展開から始まる。各部品ごとに、購入品、外注品、内作品と振り分け作業が最初の仕事。つまり、部品ごとに、これは購入できる。これは外注出来る、内作は外注出来るがコストが高い、メキシコで入手出来ないと割り振って行く仕分け作業。

 一応、品目を夫々振り分けたリストを作成し、上司の承認を得る迄3ヶ月程かかったろうか。購入品の市場調査も、当時はインターネットどころかPCも未だ出回っていない時代だったので、カタログの取寄せ、電話で質問、そのご、メーカーに出張打ち合わせと、並行して、外注用図面の設計と息ぬく暇なしの日々が購入品、外注品が揃うまで続く。内作用図面に関しても、一日一回は工場から呼び出され、手直しの指摘を受ける日々。

 設計図に関しても、一からの勉強、大学で習った製図の知識など全く役立たず。読みやすい図面の書き方、穴あけ加工もコストパフォーマンスを考慮に入れることを覚えさせられた。詰まり、穴明には色々な加工法がある。ガス切断、ボール盤加工、旋盤加工など、精度が必要なくコストが安いガス加工~精度を求められる穴明けは旋盤加工等々、工場から呼び出され指摘をうける。「これは何で精度がいるのだ、」とか。一番記憶に残っているのは、組立図と部品図を見せられて、「組立図は非常に良く出来ているように見えるけど、この隙間でどうやってボルトを差し込むの?工具の入る隙間が無いよ」等々、当時の皆さんは本当に根気よくサポートして下さったものだ。

その9へ続く 読んで頂いて有難うございました。

 

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猫好きオッサンのメキシコ在住半生記-7

メキシカンラプソディー その1(アルバイトから本採用へ)

 話は前後するが、アルバイト期間に一番長く担当したのが、メキシコで生産するための図面のスペイン語化であった。日本語からスペイン語に翻訳するのと、材料の板厚等のサイズを㎜からインチサイズに変更する事と、材質もJIS規格からANCI等のアメリカ/ヨーロッパ規格に変更することで、色々と勉強させられた。

  アルバイト勤務で半年が経った頃、上司からアルバイトを続けるのなら、取り敢えず本採用に切り替えた方が、社会保険とかも入れるからどうする?と尋ねられ、日本の景気も未だ回復していない状況もあり、取り敢えず本採用にしてもらった。本採用になった配属先は生産管理部門。相変わらず図面のスペイン語化がメインの仕事で、偶に購買部の通訳に同行する事もあった。俺の様な人手が他に居らず色んな業務(経理・総務は除く)のサポートをさせられたものだ。

今も静かでこじんまりとした街。此処に工場進出

 

 工場の建設が終わり、上司と共に工場の方へ職場移転する事となった。先ずは、住まいを引っ越さねばと思っていたら会社が出張者用にホテルを借り上げるので当面はそのホテルの部屋を使っても良いという事でラッキー!工場の敷地内にある事務所棟の生産技術部に配属となり、机を一つ与えられ、引き続き図面のスペイン語化を毎日残業しながら、進めて行く。

俺一人が担当だから、残業代も制限なく体力の続く限り毎日ほぼ深夜まで作業を進めた。午後8~9時迄は、出向者の方々も仕事をされていたがその後は一人キリで、閑散とした事務所で黙々と図面に向かう。雑音がなくなり、中断する事も無く作業が一番進んだ時間帯であった。

疲れた時に飲んでいたカフェ・デ・オジャ

ホテルへ戻ると冷たい残り物の夕ご飯を食べて寝たと思ったら直ぐ朝のハード勤務。今風に言えばブラック企業になるのかも。でも、図面の書き方とかの勉強にもなるし、残業代も多く貰えるし全然苦痛ではなかった。

 工場に勤務して、殆ど図面のスペイン語化も仕上がって来たので、残業も2時間位になってきた。出向者や出張者の人とホテルで夕ご飯を食べ乍ら、色々社会勉強になる話を聞かせて貰うのが夜の楽しみとなった。当初は身の上話、職場での失敗談や経験談など。工場立ち上げの為の精鋭が来られて居たので、それはそれは、話が尽きることも無く、耳学問の宝庫で、仕事のやり方、進め方など色々本当に為になったのを思い出す。

工場から車で30分程の更に小さな保養地が住まい

 

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 又、職場で時間の余裕が出て来たので、工場の方へブラブラと気分転換がてら向かう。工場稼働前に現地の作業者の育成で来られて居る色々な専門職の工員さんに、邪魔にならないようにして、色々と機械の特徴とかを教えてもらう。旋盤、スライス盤、ボール盤、フライス盤等々、夫々の機械の加工の特徴を教えてもらった。何が何処で役に立つか分からないもので、次に説明する業務の担当に大いに役立つ事となった。

8に続く

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猫好きオッサンのメキシコ在住半生記-6

メキシコに定住するまでの経緯-その6(アルバイトとスペイン語の勉強)

 親友に何が食べたいと聞かれ、ハンバーグ以外なら何でもということで、メキシコの定食屋へ連れて行ってもらった。スープとメインのミートボールをトマトスープで煮込んだ料理。ミートボールの中には茹で卵の1/4が入っており、辛いのを除けば美味しかったのを思い出す。その後、親友の大学時代の先輩の所へ向かい、メキシコ市に滞在中は、アルバイト先や住居などを探すのに何かと相談に乗ってもらえることとなり大いに安心する。スペイン語は親友の大学に留学した女性を紹介してもらい、個人レッスンを受けることとなった。週3回、月水金ワンレッスン2時間で予習復習を含めて結構猛勉強した。

 ホテル住まいも幾ら安ホテルといっても長期滞在になると相当な出費となるので、友人の先輩のアパートに居候させてもらう事になり、その後、民芸品で知り合った友人たちとアパートをシェアして済むようになった。

一般的な定食屋

 アルバイトはメキシコ民芸品店で日本からの旅行者が買いに来る時だけアテントをする臨時店員、スポットのパートタイムを取り敢えず友人の先輩に紹介してもらい少しでも持ち金を使わないように努める。この店で知り合った同じようなバックパッカーと休日を過ごしたり、色々情報を得たりと最初の一ヶ月くらいは暮していたが、彼らの浮草的な生活スタイルと、少ない稼ぎの民芸品店のアルバイトにもう少し地に足の着いた仕事がないかと思っていた矢先、友人の先輩が勤務している某商事会社に、出張で来ていた某重電メーカーの技術者(Y氏)と知り合い、休日はその技師に食事など色々とお世話になっていたが、アルバイトの件で別の仕事を探していると自然と口から出て来た。

メキシコ民芸品店

 運の良い事に偶々同じ重電メーカーの別部門がメキシコ地下鉄の大量受注を落札し人手が居るからアルバイトで雇ってもらえるかも知れないという事になり、早速、駐在員の方を紹介してもらう事になった。その後、現地会社に社長として来られていた、S氏に引き合わされ、簡単な口頭と筆記の試験を受け、メキシコシティについて、約2ヶ月が経過し、スペイン語の猛勉強のお蔭もあって、採用となる。これが、俺のメキシカン・ラプソディーの始まりであった。

 会社勤務の当初、一応工学部卒という事で、技術系の部門へ配置となり、プロジェクトの為の工場建設の為に出張に来ておられたエンジニアの方の通訳業務を暫く任される。その当時は続々と各部門から色々な方々が出向もしくは長期出張でメキシコに到着され、ガランとしていた社屋に活気があふれて来た。地方にある工場建設用地へ建設技師の方のお伴をしていくと、土地の整地をしている最中であったが、当時アルバイトとして採用されていた俺が、まさか工場建設後にそこに勤務する事になるとは思いもしなかった。まぁ、大学を出たばかりで、社会経験もない俺は、怒鳴られっぱなし。

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 工場建設が始まって建設技師の方が工場近くのホテルへ宿泊地を既に移られていた時のことだが、朝一番に突然電話がその人から掛って来た。「お前、建築資材の件でサイトに到着する時間をしっかり決めなかっただろ!おかげで深夜に呼び出されて大変だったんだぞ!、今度ドジったら、次回からはお前が材料荷下ろしに来い、俺は行かないからな」と大変な剣幕で身がすくむ思いだった。電話の後、当時の上司に半分諫められ半分慰められた。兎に角、毎日が勉強々々。その7へ続く

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猫好きオッサンのメキシコ在住半生記-5

メキシコに定住するまでの経緯-その5(メキシコシティーのホテル滞在)

タクシーのチケット売り場でソカロとだけ言いタクシー代を払い、ターミナルの出口でチケットを見せたら、タクシー迄先導されてソカロまで行く。

今も外観が殆ど変わらないメキシコシティー北ターミナル

メキシコシティーのソカロは大聖堂(キリスト教会)とその正面に市庁舎の建物が入りされている。ソカロは中央広場とでも訳せばよいのか何所の小さな村までもソカロが有り、教会とその正面に役場の建物が配置される構図は同じだ。

ソカロ 教会と正面に官庁の建物 何処の町に行っても規模は違うが同じ配置

ベンチに座って地図を拡げこれから向かうホテルを探していると、地図を眺めている足先に二人の足が立ち止まるのが見えた。スワ“物取り”かと思いきや、カナダから旅をしている青年二人で、ホテルを探しているのなら彼らのホテルに来ないかと勧められたが、親友との待ち合わせがあるホテルに宿泊する事を伝え、暫らく情報を聞いたのち、目的のホテルへ向かう。安ホテルではあるが割と清潔で俺のような旅行者が多かった。夜、久しぶりに風呂へ入ろうと共同のシャワー室を使うが、FとCのマークが入った蛇口のどちらが湯なのか判らず、交互に蛇口をひねるが湯は出てこない。仕方ないので水で体を洗い、別途に潜り込む始末。F=Frio(冷)C=caliente(温)

安ホテルのロビー

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翌朝8時ごろ空腹で目が覚める。ホテルから外に出た途端、日本の秋風のような爽やかな風にスカッとした気分となった。朝食を取れるレストランを探すも、日本の様な小ケースにサンプルが有る訳でも無く、スペイン語が分からなければ、注文する料理も分らないし、スイカ事件もトラウマで、入る勇気がなく暫く街中を歩いていると、結構屋台が道路わきで営業している事が分かった。ジュース―を打っている店や、タコスを売っている店があるが、タコスは良く分からないので、ハンバーグの絵のある屋台に立つ。身振りでハンバーグの絵を指し、身振りで飲み物を尋ねられて、「コカ・コーラ」と言ってみたら、「コカ?」と言われて、コカ・コーラがコカということが分かった。取り敢えず空腹を満たし、ホテルに戻り頭が回ってきたところで、ある程度スペイン語を話せなければ食事も満足に食べれないと思案する事となる。親友がホテルに尋ねて来るまでの約一週間、其処の屋台でハンバーグとコカ・コーラで済ます事になる。

屋台のハンバーグ

又、物価が日本で得た情報の倍はする事がわかり、持ち金では半年持つかどうかという事に、アルバイトの必要性があり、親友が来るまでの間、色々と考えることも多く、退屈なことはなかった。

約十日後に、親友がホテルに尋ねて来たので、先ずは、食事につれて行ってもらう。彼は大学時代にスペイン語クラブに居ただけあってスペイン語が堪能で、頼もしい限りであった。

猫好きオッサンのメキシコ在住半生記-その4

メキシコに定住するまでの経緯-その4(陸路でティファナ~メキシコシティーへ)

バスが出発して最初に驚いたのは、走り始めて直ぐガソリンスタンドで給油を始めた事だ。最初のカルチャーショックというか。。段取りとか準備の考えが無い。これは40年経った今でもあまり変わらない。30分程で給油が終わりやっと走り出した。

バスに同情したギリシアから来たという若者と片言の英語で会話をする。彼はメキシコのベラクルスへ親戚を訪ねて行くが一緒に行かないかと誘われるが、メキシコシティーで遊学中の親友と待ち合わせているので、辞退した。安心したのかいつの間にか眠ってしまう。夕日が沈む頃バスは止まった。

ティファナからメキシコへ向かう当時の長距離バス(48時間の旅)

国境付近の検問所で乗客全員降ろされ手荷物検査とパスポートなどの身分証明書で本人確認。日本と又違う二回目のカルチャーショックに遭遇した。後から分かった事だが、特に米国で買ったラジカセ等の税金を払うか没収されるかというのが目的であった。俺はそういうものは持っていなかったのですんなりとバスに戻ることが出来た。

夕闇の中を再びバスは走り出す。

地平線の見える単調な道路を行く

排気音が爆音で(多分マフラーが短い)何もかも日本と違うことや、人家のない平原の中、月夜に照らされた何処までも続く道路脇の柵を眺めていると、北海道で見た景色がちっぽけに思え、本当にメキシコへ入国したのだと実感が湧いてくる。夜半にバスは道路わきのレストランに停車する。どうやら30分程休憩すると、ギリシャの若者が説明してくれた。彼はスペイン語が分かるようだ。レストラン内に入るが食欲がないので、スペイン語でも通じるコーヒーを注文したが、煮炊きコーヒーが出てくる。所謂メキシカンコーヒー(カフェ・メヒカーノ)というやつで、シナモンと砂糖が入った甘ったるいコーヒでこれ又、驚いた。30分きっかりにバスは出るかと思いきや、小一時間してから、バスは動き出す。時間が正確で無いと、又カルチャーショック。

カフェ・デ・オジャ(cafe de olla)シナモンと砂糖の入った煮炊きコーヒー

三月下旬でも昼の間は半袖で過ごせるほどの気温だったが、夜半の気温はぐっと下がり、隙間風の入って来るバスは肌寒く異国の地を実感しながら、轟音を子守唄に眠ってしまう。朝まで2・3回目覚め窓から外を眺めるが、延々と続く平原と道路脇のこれ又途切れない柵の風景が月夜に照らされるだけ。一人旅の侘びしさが襲ってきた。未だ日本を離れて一ヶ月も経たないのに先が思いやられる。逆にいうと余裕が生れて来たということかも知れない。シティー迄は何も考えずに道中を楽しもうと思う。

 

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翌朝8時ごろ、休憩の為にレストランに停車。此処でも30分の休憩とある。朝食なので適当に付近のテーブルに着席したバスの乗客と同じものを頼む。今度はほぼ30分後にバスは出発した。日が高くなると共に気温も上昇し、クーラーが欲しい位の熱い風が窓から流れ込んでくる。景色は相も変わらず単調で段々見飽きてきた。道中ウトウトしながら過ごす内に、お腹が凄く空いてきた。次のバスストップが待ち遠しくなる。

 

午後2時頃昼食休憩でレストランに停車。早速ギリシャの青年のスペイン語を頼りに食事を注文するが、これ又ハプニングの始まり。何が食べたいと尋ねられたので、チキン料理と言った。注文を取りに来たウェイターが青年に何度か確認している様であったし、バスの乗客も顔なじみになって居たので、コチラを見ていた。暫くしてお盆に乗せられて来た物は、半分に切られた”スイカ“が二つ‼ギリシャの青年の顔を見ると、彼はウェイターにジェスチャーで手をバタつかせてニワトリの真似をするが、その仕草に皆大爆笑‼

俺たちは仕方なくスイカを食べて空腹を紛らわす始末となった。バスは夕方4時ごろメキシコシティーの北ターミナルに到着。続く-5

 

 

猫好きオッサンのメキシコ在住半生記-その3

メキシコに定住するまでの経緯-その3(陸路でロスアンゼルス~ティファナへ)     

グレイハウントのバス停の発券売り場でメキシコシティー迄と売り場のおばさんに言うと、珍しがられた。「気を付けてね~」とエールを送ってくれた。バスは30分程でやって来たので、乗車する。客は3割くらいでがらんとしている。次の停留所から乗り込んできた見るからにヤンキーの若者が着席するなり靴下にドル札を入れている。う~む、日本では考えられない強盗予防策だと、改めて日本は安全な事を実感すると共に、日本以外で暮らすのは中々注意する事ばかりだと考えてしまうと共に、これから先の事が又不安になって来る。バスに乗り込んだのは午前10時頃であったが、メキシコ国境側のティファナと隣接するサンイシドロの国境でメキシコの入国検査をすましバスはティファナのバス停へ昼の12時頃到着した。グレイハウントバスの黒人運転手が、聞き取りにくい早口な英語(当然ですね)で、「バスの切符はメキシコシティー迄だが、俺は此処から引き返すので、メキシコのバス会社で行ってくれ」ということでバスを降りたまでは良かったが、ここからシティー迄、言葉の通じない一人旅が始まることになる。日本に居た時に入手した情報と実際は違った点で戸惑いや、苦労をすることとなる。

当時のメキシコ長距離バス

バスターミナルの待合室はアメリカと違い、雑然としメキシコ人で混雑していたが、何はともあれ両替をしなくては。バス停内の両替窓口で、ドル建てトラベラーズチェックを取り敢えず100ドルだったか両替した。沢山ペソの紙幣と小銭やら補助通貨のセンタボス硬貨を受け取り何となくリッチな気分になる。しかし、スペイン語しか通じない、日本で英語を話せる日本人が少ないのと同じだ。ここで先ず第一の関門にぶち当たる。“どのバスに乗ればよい。。。。”音にしか響かないスペイン語の中でどうやってメキシコシティー行きのバスを探す?暫く途方にくれ乍ら考えていると、人間窮地に陥ると色々とアイデアが生まれるようで、「アナウンスが流れると人の動きがある」ことに目を付け、アナウンスが流れた後の人についていった。バスの乗車口でチケットを見せると、「違う」と身振りで分かり、そこで面倒ではあったが、アナウンスの度にバスを探しながら、2時間ほどで目当てのバスに乗り込むことが出来た。取り敢えずメキシコシティーまでは行けることが確実となりホッとする。

このバスでメキシコシティーまで行った!

バス停も薄汚れた感じであったが、清潔でクーラーの効いたグレイハウントのバスと違い、リクライニングは潰れたシートが3分の一を占め、勿論クーラーなど効くはずもなく、アメリカのバスの中古の払い下げという感じであった。確か午後2時頃であったと思うが、一路メキシコシティーへ向かって二日間の旅が始まった。その4へ続く

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猫好きオッサンのメキシコ在住半生記-その2

メキシコに定住するまでの経緯-その2(渡米)

大学を卒業する前年から第二次オイルショックの影響で日本経済が悪くなり、新卒の採用が厳しくなった事もあって、一年間スペイン語の習得も兼ねてラテンアメリカを旅しようと計画。遊学の為の軍資金を稼ぐことに時間を取られながら最後の単位習得と卒論も書き始める。大学最後の年は、人生で一番頑張ったかもしれない。

十和田湖へツーリング

晴れて卒業できた俺は、卒業式から3日目には羽田空港(当時は成田空港は未だなかった)からロスアンゼルスへ飛び立つ。飛行機に搭乗して着席した時の、達成感とこれからの不安が入り混じった気持は、今だにあの情景と共にこの記事を書いていると思い出される。当時の飛行機では燃料補給の為ハワイでワンストップ。給油中にアメリカ入国審査を受け、空港付近を散策した事を思い出した。マダマダのんびりした時代であった。

 

再び飛行機に搭乗し、いよいよアメリカ本土へ。着陸時刻は確か夕方の4時前後であったと思うがロスアンゼルス空港に到着。着陸寸前の地上景色からは日本とは全く違う幅広の道路と、乗用車よりピックアップが目立つ、車といい、道路といい全て大柄な印象を受ける。ディズニーランドで遊ぶため、付近のホテルを予約しているところまでが、旅の計画で、その後は行きあったりばったりのバックパッカーとして旅を続けることになるが、先ずは、どうやって予約したホテルに辿り着けるか。。空港からバスに乗ったのは覚えているが空港バスだったのか忘れた。

バスの中で同年代の女性と会話し、旅行する分には英語が通じそうなので、少し安心する。ホリデイインに着きチェックインを済ませてホッとしたらお酒が飲みたくなってきたので、バーに寄ってみるが、パスポートを見せろと言われ、意味が分からず部屋に戻る。緊張と疲れからシャワーを浴びたら直ぐ眠ってしまった。目が覚めてから昨日はパスポートを見せろと言われたのはビールを頼んだので、どうやら未成年者と思われたからだと気が付いた。

翌朝の朝食は、ルームサービスにしたがベーコンエッグと注文するも、多分スクランブルエッグか目玉焼きか尋ねられたと思うが判らず適当にYesといったら、目玉焼きが来た。この頃から楽観主義の俺も食事に悩まされる事となる。朝の9時ごろチェックアウトし、いざディズニーランドへ。夕方まで遊んだ後、ロスのダウンタウンにあるリトル東京へ向かい、夕食に日本食を食べ落ち着きを取り戻す。リトル東京内の安ホテルへ泊まり、日本人の若者から色々と旅の情報を得る。異口同音にメキシコから南米へ向かうというと、変り者のような目で見られた。まぁ、自分でも変わり者と思うから気にはしなかったが。

 

ホテルでアーカンソーから車で来た若者と親しくなって、色々と彼の友だちの所へ連れて行ってもらったりしながら、一週間ほど過ごしながら、心の準備を始める。その3に続く